具なし焼きそば

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最近の村塾考察① 首を囲むシーンについて


処刑後、銀時高杉桂の3人が先生の首を囲んでるシーンについて。


3人の立ち位置とポーズが、それぞれの「松陽の死との向き合い方」と「それから」を暗示してるように見えたので、つらつら考えたことを書き留めておいた覚え書き。自分用の壁打ち。


ところどころ断定口調になってるのは、「〜だと思う」とかを挟むと冗長になるからで、ほとんどすべてただの主観です。すみません。

ちなみに暗殺編までの考察で、最近の本誌はあんまり考慮してません。といいつつちょいちょい挟まってます。


<銀時: 首の方を見ず、背中を向けてる。でも逃げ去る訳じゃなく近くに立ってはいる。今でも背中に過去を感じている>

師を斬るという壮絶な体験の後、自分の中にある感情に整理がつかないまま、生きるべきか死ぬべきかもわからないまま、あてもなく彷徨う。
その後どうにか粛清も免れお登勢のもとにたどり着き、またささやかながら護る者を得ていく。今でも過去を直視できずに苦しむことはあるけど、とにかく自分の手の届く範囲にあるものは何が何でも護ろうという決心のもとどうにか生きてる。銀時の中では、「みんなを護ってあげてくださいね」っていうかつての松陽との約束がいまだに有効なのかも。
「悩んで迷って君は君の思う侍になればいい」っていう教えをいちばん地でいってるイメージ。過去を直視するでも投げ出すでもなく、ただそれを背負いながら、もがきながら何とか生きるうちに日常に追われて、適度にまともな暮らしもして…ていう感じ。
ある意味村塾の3人の中では最も人間らしいけど、どれだけ人とのつながりができても、自分の中にある底の見えない苦しみだけは他人に見せようとせず、今でもどこか孤独に生きてる節がある。
一回りも年下のぱちぐらの、少年期特有の純粋さをもってしてもこじ開けられないレベルの闇だけど、銀魂が終着点として万事屋の物語に収束するのであれば、そのあたりどう描かれるのか。。
さらば真選組編が終わった後、「松陽の弟子として何をすればいいのかはわからないけど万事屋としてできることをする」と言ってたのが印象的。虚が現れたことでの混乱も大きかったんだろうけど、逆に、他の2人に比べて銀時は松陽をどんな存在だと思ってたのか、松陽の存在を具体的にどんな風に意味づけてるのかが個人的に余計わからなくなった。
とにもかくにも現在の銀時の行動原理はあくまで万事屋に置かれているのだなと。



<高杉:誰よりも近くで、地面に座り込んでうなだれている>

松陽の死と銀時の涙を見届けた瞬間から、心を完全に過去に絡めとられてしまう。潰れた瞼の裏にはずっと松陽といた日々の情景が映っていて、高杉にとってはそっちが自分の本当に生きる(た)世界で、残った右目で見ている世界は、復讐の念で塗り固められた虚構に近かったので、破壊することにもためらいがなかったのかなと。ただそれだとただの狂人だけど、過去がもう戻ってこないことは痛いほどわかってた。紅桜編の桂との会話で「俺も目の前の一本の道しか見えちゃいねえ」と言ってたように、とにかく右目に見えている歪んだ世界の方を壊すしか、生きる道がなかった。
松陽への想いのあり方も、一番ストレートでシンプル。ただただ何より松陽という存在そのものに執心していて、彼が遺そうとしたものまでは見れていなかったのかな。
共に同じ苦しみを味わったはずの銀時と桂がのうのうと生きてるのが本気で腹立たしい、と思えるほど、良くも悪くも純粋なのは確かで、3人の中ではある意味いちばん真っ直ぐ。真っ直ぐで、寄り道を許さない性格だからこそ、銀時や桂のように目の前の現実をどうにかこうにか前向きに生きていくという選択ができなかったのかも。
それでも暗殺編で、松陽への想いは自分よりも銀時の方が強いという旨のことを言っていたので、銀時に対しては単純な怒りよりもずっと複雑な感情を抱いてたのだと思うけど。
目が覚めた後どういう振る舞いをするのか想像がつかないけど、銀時との死闘を通じて見えたものっていうのが何なのか気になる。



<桂: 立ったまま見つめている。このとき、他の2人も恐らく視界に入ってる>

桂は、憎しみや悲しみ、自分を取り巻くあらゆる現実と向き合わんとし、自分にできることを考える。結果、国ごと改革を起こそうという発想に至り行動を開始する。
最初は幕府への恨みからであったにせよ、そのあと過激派から穏健派に変わったのも、過去の遺恨にとらわれることなく未来をよりよく変えていこうという強い信念があったのと、あとは銀時と再会して、何をするにもまず自分の身近な者たちを大事にすることの重要さを知ったから。それでも、最初から無血革命を志さなかったのはある意味彼の弱さ。そうして一度は苦しみに足をとられたからこそ高杉の気持ちもわかるのだけど、でも桂の方がよっぽどリアリスト。精神的には誰よりも強そう。ある意味一番共感されにくいけど。
桂にとっては、松陽の存在そのものではなく、松陽の「思想」「教え」が何より自分の軸だったのかも。とはいえ松陽に「こうしろ」と直接言われたわけではなく、紅桜篇のセリフから察するに、攘夷活動をしながらも「こんな時松陽だったらどう考えるか、どんな未来を望むか」ていうふうに、自分の中で解釈をしていたのではないかと。他の2人と比べると松陽との関わりが描かれてないけど、それが、桂にとっての松陽の弟子としてのあり方だったのではないかと思う。





総合すると、銀時は<現在>、高杉は<過去>、桂は<未来>を生きているのだなという印象。